太平洋の入江の英虞湾に比べると、五か所湾は波風が荒い。その影響で、景観は男性的に荒けずりである。だが湾が深いために遠洋漁業の大型船の基地となってきた。その間に浮かぶ真珠や海苔の養殖筏が作る粗い縞目が美しい所でもある。
この地の海の歴史は、伊勢国司北畠、戦国の九鬼水軍進出の時が最も華やかであるが、それ以前にも忘れてはならない豪族の話がある。
北畠が伊勢国司として進出する前の南北朝初期以前から、このあたりは、熊野海賊の頭目愛洲一族が支配していた。その祖の愛洲宗実は、南朝に属してしばしば北朝と戦い、多くの軍功を立ててきた。
そして、代々北畠に属し、五か所湾を眼下にする五か所城に住んでいた。ところが室町末期、愛洲重明の時代になって離反、天正4(1567)年北畠具教に攻められて落城し、浜島に逃れて自刃した。
町内の相賀浦の山上に、局ケ冢(つぼねがちょう)という塚があるが、それはこの重明夫人のもの。また伊勢路のおまん上臈渕は、やはり愛洲ゆかりの上臈が身を投じた所だという伝説が残っている。
その五か所城址は町の北東二百メートル、馬山の裾が愛洲川に落ち込む丘陵で、今は深い竹薮におおわれている。城址へ行く途中には、そのおりに討死をした愛洲一族や家臣の墓が五輪塔として立ち並んでいる。
本丸跡には、見過ごしてしまいそうだが、城址跡碑と共に「剣祖愛洲移香斎生誕の里」という標識が立っている。これが、徳川将軍家指南柳生流の源流である。
移香斎が剣の奥儀を極めたのは36歳のとき。日向の鵜戸の岩屋に参籠した満願の日の夜明け、神が猿に姿を変えて現れ、剣技を示す一巻の書を授けた。そこには、剣の奥儀が猿の絵によって描かれていた。
移香斎は陰流を名乗り、泉伊勢守が新陰流、それを更に発展させたのが、柳生新陰流柳生石舟斎宗厳であった。
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