草もみじ散る浜辺の大気は、はるかな沖から縞模様をつくって寄せる黒潮に向かって澄みわたり、島全体が玉になって輝いているのではないかと思われるほど清らかであった。 三河湾に浮かぶ篠島・日間賀島は、その昔陸続きであったが、地震活動の激しかった平安時代初期に富士山の大爆発がおき、地盤沈下して現在の姿になった。沈下をまぬがれた日間賀島は、最も高いところで海抜28メートル。南は断崖が続き、北は複雑に入り組んでいる。
この島の出身で歴史上有名な人は、忠臣蔵の四十七士の一人、大高源吾である。
江戸時代、この島は篠島と共に藩の流人の島になり、西のはずれに藩主一族や高級藩士の不義者を閉じ込める黒姫屋敷ができた。
島の集落はほとんどが漁業で、東ははえ縄、西は一本釣りを得意とし、タイやタコ獲りを競い合っていた。
「板子一枚下は地獄」の海の生活なのでことに男社会の秩序はきびしかった。寝屋制度は、渥美、知多、志摩半島の漁村地帯ではいたるところにあった。
若い衆に入るころになると、トマリコになる。数人の仲間で村の大きな家の一部屋を借り、夜はそこで寝泊まりをする。宿の主人は受け親でオヤジサン、宿をネドコと呼んだ。夜、自宅で夕食をすませるとネドコへ行き、朝、帰ってくる。
若い衆の大事なことは、上の人への礼儀、規約を守ることなど、きびしい掟が待っていた。
島の年中行事は、たいてい漁がからむ。人は魚を食べていきているつもりだが、魚も海人の姿から栄養を吸収して命を保っているのではなかろうか。常に海中のそんな何億ともしれない魚の目に見つめられて暮らしているのではないかと思うと、胸にぞくっとくるものを覚えた。
|