私的画報 私的画報 表紙へ 記事一覧へ戻る お問い合わせ 執筆者募集
アート

東海歴史散策

歴史的な場所がだんだん開発の波にのまれうしなわれていく今日。
草むらに、ビルの谷間に、忘れられたようにひっそりと存在感をなくしている。
東海地方は史跡の宝庫。記憶に残っているものを少しでも多く紹介することが
大切という思いからメールマガジンで紹介し続けている。
川田きし江 プロフィールを見る

過去の記事一覧

1.哀話の坂道、からたちの砦の坂道

2.陶器と美濃源氏と化石植物の里

3.海賊大将軍のふるさと

4.戦国軍師が眠る美濃一の宮

5.大神に仕えるイツキノミヤ

6.神代の生活を守る幻の大和民族「山窩」

過去の記事一覧を見る

三重亀山

 
亀山



 伊勢の亀山は、平家の落人と和ロウソクのともしびの里である。

 凍てつく夜、重々たる鈴鹿山脈の沈む里の川べりの焚き火にあたっていると、炎の中に月が浮かび出た。

鈴鹿山脈の東南の丘陵に開ける亀山の里は、ことに平家にゆかりの深いところである。又この地は東海道五十三次の宿場となったため、徳川家譜代の城主がめまぐるしく変わる。

 市街を望む丘の上の亀山城は、城郭をめぐって2600mもの美しい土塀がめぐらされていた。その景観の見事さから、胡蝶城、姫垣城とも呼ばれていた。城跡はほとんど畑地だが、本丸を囲む雑木林や竹林に石垣が残っている。

 鈴鹿地方の展望台は亀山の北端,標高852mの鶏足山の山頂直下にある能登寺である。長い石段の頂のうっそうたる杉木立の中に、本堂、鐘楼、庫裏、大師堂などがひっそりと沈み,藤堂高虎がたびたび心を静めにやってきた寺である。

 平安時代後期、平維衝(これひら)が、伊勢国司になってから平家との縁ができたが、鎌倉時代になると、それは更に深くなる。

 文治元年(1185)、平家は壇ノ浦に滅亡し、その子孫のほとんどが謀殺されるのだが、平重盛の孫国盛は北条家預けとなった。

国盛の子実忠が、平氏の反乱を防いだ功によって亀山古城を築いて入部し、関と名乗って城下町を作った。戦国時代になると、信長の攻撃を受け降伏。しかし秀吉への忠誠を守り通し、新城としての今の亀山城を築いた。

 亀山の土地の伝統のしみ込むのは、和ロウソクと緑茶である。宿の灯を消し、炎の下で茶をたててみる。部屋に流れ込む鈴鹿川の霧の中で味わっていると、栄華の果てに都を離れ、山深いこの里に残光をよみがえらせた重盛の子孫の哀れみがよみがえってくる。

 壇ノ浦に消えきれなかった平家の残光が、和ロウソクに象徴されているように思える。



 

11. 夢幻の八事、平針への道

13.日本最古の神宮、海女の里

次のページへ
ページの上部へ

プライバシーポリシー

利用規約

企業案内

よくある質問

記事を読む

私的画報とは

Copyright (C)PROSIT ASSOCIATES Co,LTD All Right Reserved