伊勢の亀山は、平家の落人と和ロウソクのともしびの里である。
凍てつく夜、重々たる鈴鹿山脈の沈む里の川べりの焚き火にあたっていると、炎の中に月が浮かび出た。
鈴鹿山脈の東南の丘陵に開ける亀山の里は、ことに平家にゆかりの深いところである。又この地は東海道五十三次の宿場となったため、徳川家譜代の城主がめまぐるしく変わる。 市街を望む丘の上の亀山城は、城郭をめぐって2600mもの美しい土塀がめぐらされていた。その景観の見事さから、胡蝶城、姫垣城とも呼ばれていた。城跡はほとんど畑地だが、本丸を囲む雑木林や竹林に石垣が残っている。
鈴鹿地方の展望台は亀山の北端,標高852mの鶏足山の山頂直下にある能登寺である。長い石段の頂のうっそうたる杉木立の中に、本堂、鐘楼、庫裏、大師堂などがひっそりと沈み,藤堂高虎がたびたび心を静めにやってきた寺である。
平安時代後期、平維衝(これひら)が、伊勢国司になってから平家との縁ができたが、鎌倉時代になると、それは更に深くなる。 文治元年(1185)、平家は壇ノ浦に滅亡し、その子孫のほとんどが謀殺されるのだが、平重盛の孫国盛は北条家預けとなった。
国盛の子実忠が、平氏の反乱を防いだ功によって亀山古城を築いて入部し、関と名乗って城下町を作った。戦国時代になると、信長の攻撃を受け降伏。しかし秀吉への忠誠を守り通し、新城としての今の亀山城を築いた。 亀山の土地の伝統のしみ込むのは、和ロウソクと緑茶である。宿の灯を消し、炎の下で茶をたててみる。部屋に流れ込む鈴鹿川の霧の中で味わっていると、栄華の果てに都を離れ、山深いこの里に残光をよみがえらせた重盛の子孫の哀れみがよみがえってくる。 壇ノ浦に消えきれなかった平家の残光が、和ロウソクに象徴されているように思える。
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