はるか恵那山の秀麗を仰ぐ高原の里、山岡町にくると、立ちのぼる山霧に中に、伊勢や伊豆の潮の香りがした。 里を少し離れると、昔ながらの清冽な大気と水と満天の星に包まれるのだが、集落に入ると、頬をなでる風の中に磯の香りが交じり,大洋の波の音までが聞こえてきそうな気になった。
それは、零下20℃近くまで下がる寒冷の季節になると、全国の浜からテングサが取り寄せられ、里の中央部に広がる田畑を利用してカンテン作りが行なわれるからである。
カンテン作りの製法は、江戸時代、真冬に外に放置したトコロテンが乾物になっていたところから発見されたのだが、山岡に入ってきたのは昭和の初め。寒冷で雪の少ない土地が製造に適していることで広まった。
洗われ、煮詰められ、ろ過され、すべての不純物をしぼりとって凝固したテングサの固まりが、凍みわたる寒の星の下の畑一面に並べられている光景を見ていると、厳粛な思いになってくる。海の底で、たえず洗われ、大事にはぐくまれてきた植物を、清冽な山の大気と星の光の下で、何度も凍結と乾燥を繰り返していくうちに、極限の純なものに高められていくのだ。
平安時代の山岡は、恵那郡全体に広がっていた藤原氏の荘園の遠山荘であった。鎌倉時代になると、頼朝の家人加藤景兼が地頭となり、隣の岩村に城を構えて遠山と称するようになった。
山岡の里には、石仏と伝説が多い。中でも若い女性の哀話が多いのは、山国ながら波瀾の歴史が多く、一方恵那山の姿のように、心優しい土地であったからであろう。
「比丘尼ケ池」「釜屋城の姫」「機子ケ池」「居守ケ池」「竜王様」と語り継がれてきた。
里には、農村歌舞伎、狂言、白山神社の獅子舞「下手向」、豊年を祈るおかめ踊りなど独特の芸能も多く残っている。
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