陽は、西に傾くにしたがって紅をおびた金輪になって輝きを増し、まわりの空を薄紅色に染め上げていく。だが、中空はあくまで青く澄み渡り、ことに南のあたりは、伊勢の海の波の光をかがよわせているためか、渕のような深い色をたたえていた。
久しぶりにそんな広い空の色を味わったのは、名古屋市東部丘陵の明徳寺境内、「かめわり柴田」の名で有名な戦国武将柴田勝家の生誕地、下社(しもやしろ)城址であった。
このあたりは地下鉄開通と共に急に開けた所であるが、40年ほど前までは雑木の林が折り重なる丘陵地帯であった。下社城址は、そんな中でも最も高い丘にある。そこから見降ろす風景は、姿は変わっても470年前に勝家がみたものとほとんど変わらないものではなかろうか。
中央の石段を上っていくと、山門前に「柴田勝家公誕生地」の石柱がある。正面に「鬼柴田」の面相を思わせる鬼瓦をそびえさせた本堂は、150年前のものである。北之庄城天守閣と言ってもよい威風を漂わせた建物である。
柴田家は、越前の守護斯波一族。新発田の城主であったが、祖父勝重の代になって、やはり斯波が守護をかねていた尾張国のこの地にやってきて城を築き、出身地にちなんで柴田を名乗るようになった。
陽が落ち、夕闇の漂い出す中で名古屋市街のビル群を見降ろしながら、勝家が育った頃の風景を想像した。当時は、雑木の森や丘や谷間の続く原野で、集落は、その中に点々と散っていた。勝家はそこにたえず出没する猪や猿を相手に奔放な少年時代を過ごし、後に豪勇と言われる体力を養った。又、反面、家臣から深く慕われた優しい心根も、そうしたやさしい自然の営みを見る中で、はぐくまれたものだろう。
闇に沈もうとする本堂裏の梅林に足を踏み入れると満開の花が放つ香気に包まれていた。
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