春暁のおぼろにゆれる闇の中で、鎧の袖の触れ合う音を聞いた。粗く組まれた櫓の下を行き交う物見の侍の影も見た。 そこは、「尾張の虎」と呼ばれた織田信秀が本拠をおいた古渡(ふるわたり)城址。その広大な屋敷跡にそびえる東本願寺名古屋別院を包む闇があまり深いので、そんな幻が見えたのかもしれない。 古渡城を中心に、丸根、末盛、那古野などの城砦を四方にめぐらせて尾張を制圧し、美濃・三河へと侵攻していった猛将信秀の波瀾に満ちた生涯は、戦国前期の東海の野の闇に濃黄の縞模様をひるがえして疾走する虎、といってよい野性味を俊敏さに彩られたものだった。 古渡城が築かれたのは天文3年(1534)、それから末森城に移る天文17年まで使われていたのであるが、東西40M、南北100Mの敷地に、四方に二重堀をめぐらせるという広大なものだった。それが、約150年後の元禄3年(1690)、そっくり東別院に譲られて今日に至るのである。 今、その造りを忍ばせるものは何もないが「古渡城址」と刻まれた石柱の向こうに屈折して続く別院の回廊や、天を圧してそびえる本堂の甍を見ていると、当時の城の規模が、そのまま想像できるような気がする。 古渡の城が廃城になり、東別院が立つまでの道は遠かった。 名古屋の城下町が造られたとき、各宗派を集めた寺町ができたが、本願寺だけはしめだされた。信長、家康をさんざん悩ませた一向宗の勢力増大を恐れたからである。 しかし幕府開府から90年近くたった元禄ごろになると政権も安定し、武士や町人の間にも別院建立の声が高まり、尾張二代藩主光友に古渡城址を譲り受け、18年の歳月をかけて、名古屋城に並ぶ規模の堂宇伽藍を建てたのである。しかし昭和20年3月の空襲で、396畳敷の大本堂などすべてが消失した。
|