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アート

東海歴史散策

歴史的な場所がだんだん開発の波にのまれうしなわれていく今日。
草むらに、ビルの谷間に、忘れられたようにひっそりと存在感をなくしている。
東海地方は史跡の宝庫。記憶に残っているものを少しでも多く紹介することが
大切という思いからメールマガジンで紹介し続けている。
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過去の記事一覧

1.哀話の坂道、からたちの砦の坂道

2.陶器と美濃源氏と化石植物の里

3.海賊大将軍のふるさと

4.戦国軍師が眠る美濃一の宮

5.大神に仕えるイツキノミヤ

6.神代の生活を守る幻の大和民族「山窩」

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藩直営の用水が流れる尾張の田

 
藩直営の用水が流れる尾張の田



 宮田用水は、平安時代の国司大江匡衝により名付けられた「大江川」を始めとして用水路、パイプライン併せて総延長500Kmに及ぶ水路にふくまれる農業用水である。

 400年前の慶長13(1608)年、家康の命で、木曽川に築かれた「お囲い堤」により、木曽川の支派流が締められ「杁」(取り入れ口)を作り、335ヶ村に及ぶ用水は尾張藩直営の用水となった。藩の初期には「水奉行」制度により管理された。

 1700年代になると、「杁奉行」が「水奉行」に代わり、雑草の繁茂や水管理を見廻り、田植えから稲刈りまでの情報管理をしていた。土地が肥沃であった上に、水管理により、この地域での百姓一揆などは起きなかったといわれる。

 水源は犬山市、般若杁(江南市般若地点)、大野杁(一宮市浅井町大野地点)で取り入れられる9.8KM。濃尾平野の田んぼをうるおしてきた。

 田植えは、天候と水位と苗の育ちぐあいにより日程が決まるなど、すべてが自然相手である。弥生時代に東南アジアや朝鮮半島、台湾を経由して北九州に伝わった稲作が、幾多の変遷をしながら、田んぼの形態は変わっても、今日に受け継がれている。前夜まで強く降った雨も小降りになった。深田がさらに深くなったように見える。

 昨年より再開した清須市寺野花園の田んぼに、菅笠、絣の半纏に赤いたすき、蹴出しの色が鮮やかな衣裳を着けた早乙女が稲の苗を植えていく。

 糸のような雨が降り続く。重く垂れ込めた雲のすき間からかすかに明かりが洩れ、植えたばかりの若苗を浮かび上らせる。水面に移った苗の葉先が小刻みにゆれ、どんよりとした空をうつした田に波紋を拡げる。
 田を渡る風、はしゃぐ早乙女の声
 どこからかカエルの声も聞こえ始めた。

 

17.「尾張の虎」織田信秀を支えた古渡城址

19.原始の原生林を流れる木曽川の源流水木沢

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