宮田用水は、平安時代の国司大江匡衝により名付けられた「大江川」を始めとして用水路、パイプライン併せて総延長500Kmに及ぶ水路にふくまれる農業用水である。 400年前の慶長13(1608)年、家康の命で、木曽川に築かれた「お囲い堤」により、木曽川の支派流が締められ「杁」(取り入れ口)を作り、335ヶ村に及ぶ用水は尾張藩直営の用水となった。藩の初期には「水奉行」制度により管理された。 1700年代になると、「杁奉行」が「水奉行」に代わり、雑草の繁茂や水管理を見廻り、田植えから稲刈りまでの情報管理をしていた。土地が肥沃であった上に、水管理により、この地域での百姓一揆などは起きなかったといわれる。 水源は犬山市、般若杁(江南市般若地点)、大野杁(一宮市浅井町大野地点)で取り入れられる9.8KM。濃尾平野の田んぼをうるおしてきた。 田植えは、天候と水位と苗の育ちぐあいにより日程が決まるなど、すべてが自然相手である。弥生時代に東南アジアや朝鮮半島、台湾を経由して北九州に伝わった稲作が、幾多の変遷をしながら、田んぼの形態は変わっても、今日に受け継がれている。前夜まで強く降った雨も小降りになった。深田がさらに深くなったように見える。 昨年より再開した清須市寺野花園の田んぼに、菅笠、絣の半纏に赤いたすき、蹴出しの色が鮮やかな衣裳を着けた早乙女が稲の苗を植えていく。 糸のような雨が降り続く。重く垂れ込めた雲のすき間からかすかに明かりが洩れ、植えたばかりの若苗を浮かび上らせる。水面に移った苗の葉先が小刻みにゆれ、どんよりとした空をうつした田に波紋を拡げる。
田を渡る風、はしゃぐ早乙女の声 どこからかカエルの声も聞こえ始めた。
|