水郷の里蟹江には、伊勢の海と、霊峰木曽御岳の光がかがよっている。 太古の昔、このあたりは、東海湖と呼ばれる大きな湖であった。そこに、木曽川とその支流の押し出した土砂が堆積し、水の流れの縞模様に囲まれた浮島のような土地が出来上がった。豊かな水量を見せて蛇行する蟹江、福田、戸田、庄内川は、いずれもこの土地を育てた母なる流れである。 半農半漁の穏やかな暮らしを重ねてきたが、平治元年(1159)、都の戦いに敗れた源義朝が東国へ逃れるとき、美濃、伊勢をへて落ちてきた義朝は、この地の人の手厚いもてなしを受け、再び東国に向かった。ところが知多の内海で討たれることになる。 寿永元年(1182)、頼朝の呼びかけに応じた木曾義仲も、京に向かう途中、ここで暴風雨にあって滞在した。このとき須成の常楽寺に、源氏再興を祈って多くの寄進をした。 常楽寺は、天平5年(723)、僧行基が創建した。文治6年(1190)、義仲討死後、木曽へ帰る巴御前も、ここに寄って頭を丸め、東阿禅尼と名を変えて大日堂を建てた。だが、天正12年(1584)、常楽寺は蟹江城の戦いで、龍照院,八剱社だけを残して消失した。 永禄7年(1564)に創建された法蔵寺は子安信仰を集め、本尊の鉄地蔵には「一切衆生成仏得道也願主入連白」の銘と共に、寛喜2年(1230)8月の記録があり、尾張地方に多い鉄地蔵の中で最古のものである。 永禄3年(1560)、桶狭間の合戦のとき、蜂須賀小六がこの地蔵に戦勝を祈願。勝利後、地蔵の持っていた鉄の錫杖を持ち帰って、長く蜂須賀家の家宝にした。直立する鉄地蔵の大きさは160センチ。左手に宝玉を持って右手の先を外に向けてたれ、鎌倉様式をよく伝えている。 鈴木四郎左衛門は、多くの新田を開発、堤造り、木曽材の運搬,ゼロ地帯の発展の尽くした。
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