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アート

東海歴史散策

歴史的な場所がだんだん開発の波にのまれうしなわれていく今日。
草むらに、ビルの谷間に、忘れられたようにひっそりと存在感をなくしている。
東海地方は史跡の宝庫。記憶に残っているものを少しでも多く紹介することが
大切という思いからメールマガジンで紹介し続けている。
川田きし江 プロフィールを見る

過去の記事一覧

1.哀話の坂道、からたちの砦の坂道

2.陶器と美濃源氏と化石植物の里

3.海賊大将軍のふるさと

4.戦国軍師が眠る美濃一の宮

5.大神に仕えるイツキノミヤ

6.神代の生活を守る幻の大和民族「山窩」

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源氏と戦国哀話を残す伊勢の浮き島

 
蟹江町



 水郷の里蟹江には、伊勢の海と、霊峰木曽御岳の光がかがよっている。

 太古の昔、このあたりは、東海湖と呼ばれる大きな湖であった。そこに、木曽川とその支流の押し出した土砂が堆積し、水の流れの縞模様に囲まれた浮島のような土地が出来上がった。豊かな水量を見せて蛇行する蟹江、福田、戸田、庄内川は、いずれもこの土地を育てた母なる流れである。

 半農半漁の穏やかな暮らしを重ねてきたが、平治元年(1159)、都の戦いに敗れた源義朝が東国へ逃れるとき、美濃、伊勢をへて落ちてきた義朝は、この地の人の手厚いもてなしを受け、再び東国に向かった。ところが知多の内海で討たれることになる。

 寿永元年(1182)、頼朝の呼びかけに応じた木曾義仲も、京に向かう途中、ここで暴風雨にあって滞在した。このとき須成の常楽寺に、源氏再興を祈って多くの寄進をした。

 常楽寺は、天平5年(723)、僧行基が創建した。文治6年(1190)、義仲討死後、木曽へ帰る巴御前も、ここに寄って頭を丸め、東阿禅尼と名を変えて大日堂を建てた。だが、天正12年(1584)、常楽寺は蟹江城の戦いで、龍照院,八剱社だけを残して消失した。

 永禄7年(1564)に創建された法蔵寺は子安信仰を集め、本尊の鉄地蔵には「一切衆生成仏得道也願主入連白」の銘と共に、寛喜2年(1230)8月の記録があり、尾張地方に多い鉄地蔵の中で最古のものである。

 永禄3年(1560)、桶狭間の合戦のとき、蜂須賀小六がこの地蔵に戦勝を祈願。勝利後、地蔵の持っていた鉄の錫杖を持ち帰って、長く蜂須賀家の家宝にした。直立する鉄地蔵の大きさは160センチ。左手に宝玉を持って右手の先を外に向けてたれ、鎌倉様式をよく伝えている。

 鈴木四郎左衛門は、多くの新田を開発、堤造り、木曽材の運搬,ゼロ地帯の発展の尽くした。

 

19.原始の原生林を流れる木曽川の源流水木沢

21.野兎と遊んだ蜂須賀小六のふるさと蓮花寺

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