夕暮れの雑木林の小道では灰色の野兎に出会った。脇の薮から数メートル先へひょいと飛び出してくると5、6歩走って振り向く。そっと近づいても逃げようとせず、目だけで私の姿をとらえて草を食べ始めた。
そこは尾張平野西部の昔の姿を残す最期の地といわれる蓮華寺裏の大自然林。太古の平野の段丘の面影を残すただ一つの地でもある。
旧蜂須賀村にある蓮華寺は、秀吉に従って全国を転戦、後に阿波国藩主となった蜂須賀正勝(小六)家の菩提寺であった。
蜂須賀の地は、西部尾張のほぼ中央、清州宿から津島に至る古い街道があった。小六の家はこの地の土豪であったが、地理的条件から、非常にむつかしい立場にあった。清洲に織田大和守、西の勝幡に織田信秀、さらに向こうに斎藤道三がいて、何時も小ぜり合いをくり返していて、どこの見方にもなりきることができなかったことから、小六にも、野盗、野武士、草賊とさげすまれた時代があった。
蜂須賀の意味は「州処」(すか)つまり砂原、あるいは川や海を望む所を指し、尾張西部にはスカ、ス、シマのつく地名が多い。
蓮華寺は、弘仁9年(818)、弘法大師によって創建された。そのころは高須賀とよばれていた。この地には毒蜂が多く、大師の法力で蜂を封じて塚を築き、地名も蜂須賀と改めたといわれている。
蜂須賀の帰依を受けた蓮華寺は、寺領50石を貰い、今も2万平方メートルの境内を保っている。本堂裏にある桃山時代の遺風を良く残した庭園がある。池にはコウホネやタヌキモが浮いていて、古い庭園らしい風格がある。
蜂須賀の西、木曽側べりの立田は蓮、レンコンの産地である。寺の境内によく蓮池が作られているのは、西方浄土(極楽)は、神聖な蓮の池だと信じられているからだという。今は荒廃をとどめることのできない広大なこの寺領。だがここも、人の世の盛衰と同じく一つの時代を終えて休息の世界へ向おうとしているのだと思うと、少し心が安らいできた。
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