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アート

東海歴史散策

歴史的な場所がだんだん開発の波にのまれうしなわれていく今日。
草むらに、ビルの谷間に、忘れられたようにひっそりと存在感をなくしている。
東海地方は史跡の宝庫。記憶に残っているものを少しでも多く紹介することが
大切という思いからメールマガジンで紹介し続けている。
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過去の記事一覧

1.哀話の坂道、からたちの砦の坂道

2.陶器と美濃源氏と化石植物の里

3.海賊大将軍のふるさと

4.戦国軍師が眠る美濃一の宮

5.大神に仕えるイツキノミヤ

6.神代の生活を守る幻の大和民族「山窩」

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木曽山岳の秘境権兵衛峠

 
長野県


 すがれた梢がうねり続く落葉松の森に金色の朝日が射した。 紺碧のそらに、光の投網を打ったかのようなショックが広がった。尾根のあたりから「キューン」という澄んだ声が響いてきた。森はそのまま静まり返り、ときどき、遠い峰を渡る風音だけが響くだけであった。

 そこは赤石連邦の雪峰を正面に仰ぐ木曽山脈伊那側の中腹、白樺と落葉松林の波におおわれた権兵衛峠であった。
  標高1522m、はるかに高遠の伊那盆地が沈む権兵衛峠は、木曽谷から伊那谷へ20余m、屏風の峰重なり奈落の谷落ち込む峻険な木曽山岳を、米を運ぶ馬や白装束の御岳行者が鈴を鳴らして通 った道である。

 御岳の雄姿を正面に望む木曽の姥神峠から羽渕、萱ケ平へと、激流、岩をかんで渦巻きほとばしる渓谷沿いに続く山岳道である。

 米の乏しい木曽住民のために、伊那の豊穣な産物を求めてこの道を開いたのは、木曽ノ越村の住人、古畑権兵衛であった。

 元禄7年(1694)、牛馬も通れぬ山岳道改修を思い立ち二年の歳月をかけて完成させた。それによって、この新道を権兵衛街道、旧鍋掛峠を権兵衛峠と呼ぶようになり、木曽と伊那と産物が交流するようになった。木曽からは漆器、木櫛、曲げ物細工、伊那からは米や野菜が運ばれるようになった。

 権兵衛峠のすぐ下のすり鉢の底のような谷に、萱の里と呼ばれる隠れ里があった。雨季には崖がくずれ、冬は豪雪に埋まる里であったが、四季を通じてのどかな里であった。舞い散る木の葉の色あいで秋の深まりを知り、奥山で鳴く獣の声で春の訪れを悟った。

 峠の近くには、天保十年の銘のある石仏や、「南無阿弥陀仏」と刻んだ石碑、享和3年に行き倒れた人の「雪災餓死菩提」といった供養塔もの残っていた。

 季節はずれの峠付近のもりは、ほとんど訪れる人がなく、冬は原始の静寂と、獣の匂いの中で,魔界のような不思議な日々を送っているのではないかと思ったりした。



 

24.舞い散る枯れ葉と神々の衣ずれの音

26.春きざす狐日の里

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