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アート

東海歴史散策

歴史的な場所がだんだん開発の波にのまれうしなわれていく今日。
草むらに、ビルの谷間に、忘れられたようにひっそりと存在感をなくしている。
東海地方は史跡の宝庫。記憶に残っているものを少しでも多く紹介することが
大切という思いからメールマガジンで紹介し続けている。
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過去の記事一覧

1.哀話の坂道、からたちの砦の坂道

2.陶器と美濃源氏と化石植物の里

3.海賊大将軍のふるさと

4.戦国軍師が眠る美濃一の宮

5.大神に仕えるイツキノミヤ

6.神代の生活を守る幻の大和民族「山窩」

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舞い散る枯れ葉と神々の衣ずれの音

 
豊川市


 夜明けの境内を淡く煙らせて流れる霧の奥から、太鼓の音が「どろどろどろ............」と響き続けていた。

 ときおり、薄れる霧の中に淡桃色の花が幻のように浮かんできては、すぐ流れる縞模様の中包まれて消えてしまう。

 ようやく朝の光が強くなりかけたころ、不意に中空にそり返った大伽藍の屋根が浮かび、トンビの舞う青空が広がってきた。

 そこは、やっと春の気配の漂い出した妙厳寺。夜の明けるころから、人影のない境内をふるわせて響く勤行の太鼓の音が地の奥にきざす春を呼び起こすように思えてきた。

 鎌倉中期の嘉吉元年、豊川の流れを眼下にする円福ケ丘に草庵として創建された妙厳寺は、今川義元の保護を受けたり、家康の戦勝祈願所になって発展してきた。

 そんな中、時代と共に寺の山門鎮護のために祀られた狐の化身叱枳尼天(だきにてん)信仰が高まり、徳川初期の稲荷信仰の流行にも乗って、一躍有名になっていった。

 叱枳尼天は、元は仏に仕えるインドの仏様、仏教伝来と共に日本にきて、それが五穀豊穣、家内安全、商売繁盛へと発展し、本家妙厳寺に勝る信仰を呼ぶようになっていったのだ。

 昔から、貴族、武将の建立した寺は、その一門が滅びると復興が困難になる。気位が高く、庶民を寄せつけない雰囲気があるからだ。

 ところが豊川稲荷の信仰は庶民の盛り立てたもの、衰えかけることがあっても、また新しい信者が集まってきて復興する。
小さな寄進が重なって、また新しい信仰を生んだ。

 その昔、このあたりは、少し長雨になると豊川が氾濫して一望千里の湖となり、村が湖中に孤立した。そのため、豊川流域には霞堤と呼ぶ二重堤防が作られている。

 堤防と堤防の間はふだんは田畑にされており、三寒四温の時期に、青い狐火の行列が見られたという。里人は、「お稲荷様の一族が旅立っていかれる」と噂をし合ったものだ。



 

25.木曽山岳の秘境権兵衛峠

27.死相(四層)で不気味に笑う

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