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アート

東海歴史散策

歴史的な場所がだんだん開発の波にのまれうしなわれていく今日。
草むらに、ビルの谷間に、忘れられたようにひっそりと存在感をなくしている。
東海地方は史跡の宝庫。記憶に残っているものを少しでも多く紹介することが
大切という思いからメールマガジンで紹介し続けている。
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5.大神に仕えるイツキノミヤ

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木曽山岳の秘境権兵衛峠

 
大垣市


 通りすがりの修験者、山伏を人柱にしたために、死相をした天守閣が、不気味な含み笑いをもたらしている、と言われるのが、水の都の大垣城である。

 この城の発祥になったと言われる天文年間(1532〜54)の初期は、足利将軍が、乱戦の都から近江へ逃れているときで、大和諸寺の僧兵と京の山科本願寺の一向一揆勢が各地でぶつかり合い、互いの伽藍を焼き討ちし合っているときであった。

 天守閣は、三層か五層が普通だが、大垣城は、なぜか四層である。しかし「死相」に通じるというので、一階の屋根を付け庇とみなし、古文書も、三層で通している。

 土台の石が「笑い積み」と言われるのは、四角なものでなく、天然の石を積み重ねたためである。石と石の間にすきまができて、石垣が口をあけて笑っているように見えるからである。

 城といっても、本丸と二の丸をもつ小さなもので、斎藤義竜の重臣氏家卜全のものになっていたが、その後、池田・三好・木下・加藤・一柳・羽柴・伊藤と激しく入れ替わった。

 人柱を立てて天守閣を築いたのは、伊藤祐盛が城主であった文禄四年(1594)である。祐盛が天守閣工事に難渋しているとき、一人の老いた山伏が普請中の城を見上げて何事か祈っているのを見つけた。そこで、無理遣りとらえて、天守閣の真下の穴の中へ放り込み、生き埋めにして完成させたのである。

 天守閣には、人柱の残したカシの六尺杖、蓑、笠が残されていたが、昭和20年7月の大空襲で焼失した。33年、天守閣を復旧するときに、石垣を取り除いて土台を掘り返したが、なぜか、人柱の人骨は出ず、鼻緒の穴が一つの下駄が出てきた。

 人柱のはきものだけ埋めて、こっそり逃がしたのか、山伏の体が溶けて天守閣そのものになっていき、石垣を不気味な笑い顔に見せるようになったのか、この話しは、怪談話にまで発展していくことになった。



 

26.春きざす狐日の里

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