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アート

東海歴史散策

歴史的な場所がだんだん開発の波にのまれうしなわれていく今日。
草むらに、ビルの谷間に、忘れられたようにひっそりと存在感をなくしている。
東海地方は史跡の宝庫。記憶に残っているものを少しでも多く紹介することが
大切という思いからメールマガジンで紹介し続けている。
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過去の記事一覧

1.哀話の坂道、からたちの砦の坂道

2.陶器と美濃源氏と化石植物の里

3.海賊大将軍のふるさと

4.戦国軍師が眠る美濃一の宮

5.大神に仕えるイツキノミヤ

6.神代の生活を守る幻の大和民族「山窩」

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風雅と哀史と土の国郡上

 
名古屋市昭和区


 京の都の北山、貴船の奥に雲ヶ畑という秘境があった。

 萩が妖しく乱れ咲く野の道を、北山杉の奥山を目ざしてたどっていくと、芒の穂がぼうぼうと頭の上に乱れかかってくる。

 ようやくの思いで出た里は、わら屋根の深い軒に雲が煙り、急峻な山の畑にソバの花だけがわびしく暮れ残っていた。

  その昔、都の人達はこの山峡の地を化け物の里と言って恐れていた。雲ヶ畑の名は、雲の生まれるあやかしの世界、得体の知れない幽冥界に通じるところとしてつけられたのであろう。

 名古屋にも、それによく似た仙境に通じる世界があった。今も緑の坂道と閑静な空間の残る八事の音聞山かいわいである。

 尾張高野の興正寺、陸奥の神を迎えた塩竃の社の麓に「八事の山中にありて、弧峰秀峻、絶景は言葉に尽くしがたし」と言われたところである。

 音聞山の名は,松風や小鳥の声、この地で聞く全ての音が、俗界を離れた清らかなものにl聞こえたことから付けられたのであろう。

 だが、「里神様、音聞山は二日月」と詠まれたこのかいわいも、夕暮れから夜にかけては、幽冥界に通じるあやかしの世界であった。

 昔、このあたりに、両側を深い竹薮に囲まれた「きよの坂」と呼ばれる坂道があった。

 石ころだらけの急坂で、夜になると、提灯の明かりも吸われてしまうほどの闇に深いところであった。近くの馬背山には狐が棲んでいて、ときどき出てきていたずらをしては里人を困らせた。

 大原が千年の都、京と共に育った田舎ならば、島田かいわいは、御三家尾張の熱田の宮の育てた里であった。ダイコンしか育たなかった荒地の御器所かいわいに比べれば、四季のうつくしい楽園であった。音聞山の西に壇溪という土地がある。東部の丘陵と城下の平野地帯の狭間で、昔は山崎川が丘の山裾に沿って湾曲して流れ、水、崖、樹木が幽すいな風景をかもし出していた。



 

31.風雅と哀史と土の国郡上

33.人の神の原点が息ずく伊那谷の晩秋

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