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アート

東海歴史散策

歴史的な場所がだんだん開発の波にのまれうしなわれていく今日。
草むらに、ビルの谷間に、忘れられたようにひっそりと存在感をなくしている。
東海地方は史跡の宝庫。記憶に残っているものを少しでも多く紹介することが
大切という思いからメールマガジンで紹介し続けている。
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過去の記事一覧

1.哀話の坂道、からたちの砦の坂道

2.陶器と美濃源氏と化石植物の里

3.海賊大将軍のふるさと

4.戦国軍師が眠る美濃一の宮

5.大神に仕えるイツキノミヤ

6.神代の生活を守る幻の大和民族「山窩」

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昼なお暗い柳生街道

 
奈良県


千古の年輪を見せて天を隠す吉野スギを漏れた日の光が、深い渓谷に沿って敷かれた石畳の道に微妙な斑紋を作ってゆれる。耳をすませば、小鳥の声や、夏虫の澄んだ声が聞こえてくるが、あたりの雰囲気があまりにすごみをおびているため、気づくことがなかった。

この谷の歴史は恐ろしい。ここは奈良時代の庶民の死体捨て場。京都の化野(あだしの)、鳥辺野(とりべの)と同じように、この世に疲れ、幸少ない人生を終えた庶民の死体が、野獣や鳥に食い荒らされるままに、埋められることもなく放置されていたという。

奈良から約16キロ、大和高原の一角にひっそりと静まり返る柳生の里は、柳生新陰流で徳川幕府の兵法指南となり、その後、三百年にわたる天下泰平の基礎固めに一役をかった柳生但馬守(たじまのかみ)のふるさとである。

柳生の名は、その昔、この地に大きなヤナギの木があったことからついたと言われる。

柳生の名が世間に知られるようになったのは、宗厳(むねよし。石舟斎)が柳生新陰流を生み出し、その子宗矩(むねのり)が徳川家の兵法指南となってからである。

宗矩の子、十兵衛が寛永十六年から慶長三年にいたる十二年の間にこの道場で教えた門弟の数だけでも一万三千六百人といわれ、この里は、その門前町として発展していった。

山ぎわに静まる軒深いわらぶきの屋根、その庭に露を含んでひっそりと咲くやまぶきの花、四方に迫る山すそを洗ってゆっくり動く雨雲、その静寂の一角を切り裂くように、ときおり響くキジの声・・・・。六月の雨の中を尋ねた柳生の里はあまりにも静かで、全国の武芸者のメッカとして、隆盛をきわめた土地とは、とても思えなかった。

山峡にあって、剣禅一体の精神修養を主とした新しい流派を生み、誇ることなく、てらうことなく、序々にその心を世に伝えていった姿勢に、思わず胸に迫るものを感じた。



 

38.霧わき、不気味さ迫る霧ケ城

40.さかまく木曽川の流れと犬山城

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