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アート

東海歴史散策

歴史的な場所がだんだん開発の波にのまれうしなわれていく今日。
草むらに、ビルの谷間に、忘れられたようにひっそりと存在感をなくしている。
東海地方は史跡の宝庫。記憶に残っているものを少しでも多く紹介することが
大切という思いからメールマガジンで紹介し続けている。
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過去の記事一覧

1.哀話の坂道、からたちの砦の坂道

2.陶器と美濃源氏と化石植物の里

3.海賊大将軍のふるさと

4.戦国軍師が眠る美濃一の宮

5.大神に仕えるイツキノミヤ

6.神代の生活を守る幻の大和民族「山窩」

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豊年を祝って舞う「花祭り」

 
石川県


能登の秋は早い。草もみじが足元から始まる。そこにはもう昔からの静けさ。日本海の波は日ごとに荒くなり、その海鳴りの音の中で、ゆっくりと稲刈りが勧められる。

能登はアイヌ語の「ノット(あご)」から来たといわれ、北東に向って、ほぼ一直線に伸びる日本海岸の中で、ただ一つの突起部。

出雲風土記によると、出雲の国から、現在の珠洲(すず)の岬に網をかけて「クニコ、クニコ」と引き寄せたところというのがこの半島だ。能登半島が陸地として誕生したのは約三千年前。それまでの一千年は、能登の高峰が大噴火を続け、多くの火山の島ができていた。そしてそれが衰え始め、最後の大爆発によって残されたのが現在の変化に富んだ海岸線と奇石・怪石だ。これらは、火山活動の産物である。

日本海の煙霧のかなたに見え隠れする七つ島を見ながら奥能登へ北上すると道はしだいに断崖の高みにのぼっていく。海岸までの傾斜地のわずかな土地を耕した段々畑が見える。崖の上から海辺までの千枚田。

文治元年(1189)三月、壇ノ浦の戦いに敗れた平家の一族である平時忠は、神器の帰座という重大な仕事を許されたが、源氏一族の義経さえ追われ、身の危険を感じて海路能登の国に逃れた。九月二十三日、わずか主従十六人で珠洲の浦に着いたが、日本海の荒れる時期、岩陰に仮小屋を建てたものの波の音でよるも寝られず、さらに奥に入って山陰にやかたを構えた。そして赤旗と宝物を収めた。その後も平家残党探索の目は厳しく、姓を時国と改めた。

「源平時代から今日まで、建物や器具ばかりでなく一家一族の気品を昔のまま伝えることができたのは、奥能登の果てであること、鎌倉、南北朝、室町、江戸時代を通して、時国一家は一族あげて時流に入ることなく守り続けてきたからである...」

奥能登の海に咲く波の花。それはここに生きる人たちの命の輝きの象徴のように思われた。



 

40.さかまく木曽川の流れと犬山城

42.西方浄土に続く熊野灘

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