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アート

東海歴史散策

歴史的な場所がだんだん開発の波にのまれうしなわれていく今日。
草むらに、ビルの谷間に、忘れられたようにひっそりと存在感をなくしている。
東海地方は史跡の宝庫。記憶に残っているものを少しでも多く紹介することが
大切という思いからメールマガジンで紹介し続けている。
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過去の記事一覧

1.哀話の坂道、からたちの砦の坂道

2.陶器と美濃源氏と化石植物の里

3.海賊大将軍のふるさと

4.戦国軍師が眠る美濃一の宮

5.大神に仕えるイツキノミヤ

6.神代の生活を守る幻の大和民族「山窩」

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瀬戸

 
名古屋


渓流にそって苔むす坂道を登る。木々の茂みは深く、その森には、六百種を越える植物群がひしめき合って呼吸をしている。

山門に向かう長い石段の敷石は、幾百万とも知れぬ、多くの参詣者の足跡でなめし皮のような艶をもって摩耗していた。

開山は建武三年(1336)、鎌倉幕府が滅び、戦国時代へのきざしが芽ばえかけたころであった。玉野川に削りとられた奇岩が林立する人跡未踏の原生林。覚源禅師がこもり、その教えを求めてやってきた雲水たちの全部が、ある夜、定光寺仏という霊像を掘り出す夢を見たところから、お堂が建てられた。

時は移り、世は変わって、時代は江戸---ふとしたことから尾張藩徳川義直の帰依をうけて、尾張藩祖廟になった。

本堂のわきを通って裏山へ、細い道をたどって尾張藩祖廟に向かう。普通の寺院建築とは違い姿は怪異であった。御廟を建てたのは、義直に長い間仕えていた明(中国)の帰化人陳元贇(ちんげんぴん)。

山門に一歩踏み込むと、正面に御廟、そして後方の石垣で築かれた一段高みに義直公の墓が立っているが、目についたのは御廟の横に並んだ殉死者の墓だった。大きい墓は臣の墓、片すみにかたまっているのはそのまた臣と、城中で殿様に仕える姿で、封建の世の序列のきびしさが、死後まで残されているのだ。

義直は、江戸屋敷で死に、ここに運ばれて葬られたが、葬儀に集まった僧は750名という数であったといわれている。主従関係のきびしさが、じゅうぶんに想像される。

定光寺を取り巻く古木うっそうたる原生林の面影は濃く、尾張では見られぬ植物も多い。かつて尾張藩では、それを利用して薬草園を経営していたし、日本最初の理学博士、本草学者の伊藤圭介や、多くの植物学者をはぐくんだ。

そよぐ竹やぶ、そびえる老杉ーー。ここが霊場となってからの長い年月が、おごそかな雰囲気が、かすかな風の中に漂っている気がした。



 

46.遠浅の海岸線をうずめるノリソダ、西三河

48. 高原を走る小海線

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