名古屋の町に遅い陽の光が射しそめ、淡い朝霧が薄紅色に染まろうとしていた。だが、その森だけは濃い霧に包まれたまま、綿毛のように煙続けていた。
白壁旧武家屋敷街のすぐ北、名古屋台地が北に大きく落ち込もうとする先端に建つ片山神社。その昔、名古屋の森の一つとして有名であった蔵王の森の跡である。
片山神社は文化年間(1804〜17)ごろ、近くの町の権現小町と呼ばれる美女が、白壁の武家屋敷の武士と恋仲になり、男の子までなしながら身分の違いから添いとげることができずに尼になったが、五月雨の降る夜、蔵王権現の西の坂で命を絶った。男の子は雨の夜になると、坂道から坂道へ母を探して歩いた。
今も神社の境内に残る尼ケ坂、坊ケ坂はそれにちなんで名づけられた。
尼ケ坂、坊ケ坂を西へ、名古屋城に向かうと、いつも清冽な水の湧く泉があったという清水坂、かつての名城の秘境枳穀(きこく)坂と、坂道が続く。
「枳穀」とは「カラタチ」のことで、坂の下は、名古屋城に万一のことがあったとき、藩主が城を脱出して木曽路へ落ちてゆくときの非常口東矢来木戸のあったところでもある。
東矢来木戸の中は、藩主を守って脱出する役の同心がいた御土居下屋敷。家老成瀬の中屋敷もあり、藩の重臣以外は近づくことのできない秘境であった。
坂の両側、外堀の上、成瀬中屋敷の坂道の両側にもからたちがぎっしりと植えられ、坂道をふさげば逃れることができなかった。藩祖義直以来の鉄壁の防御柵であった。 枳穀坂から清水坂、尼ケ坂への台地の上の白壁、主税、橦木町あたりに武家屋敷が並んでいた。
昔はもっと急な坂道であったから、そのまま石垣、水をためれば下は掘――ー。
江戸の世の世界が還ったような思いになってきた。
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