伊吹おろしの吹き付ける日、風の坂道を歩いた。宙を駆ける風の縞にあおられて、ネオンの光が空に淡い筋を引いて流れていた。
半月に導かれながら、御器所台地から吹上へゆるやかな坂をたどった。そのあたりは昔は荒れたダイコン畑、キツネやムジナが出没して、変化(へんげ)のものの火が燃える所であった。
今の季節に吹く風は、かわらぬ原始のころの匂いをもっている。御器所かいわいは、昔から伊吹おろしの風の通り道であった。
吹上の名は、強い風が吹き上げる丘、濃尾平野の風の道筋の一つである。枳穀坂、沢の観音坂と共に、「名古屋坂道三寒の丘」とも言われ、真冬の伊吹おろしにあうと、骨も凍る思いになったという。
白川公園かいわいは、かつてここには幾筋もの渓流が流れる森があった。江戸時代になると森が崩され、鉄砲町、八百屋町になるのだが、それ以前は、藤のはなが滝のようにしだれる所であり、東西の文人墨客を集めていた。その渓流の代表は、紫川であった。森の中の伝光院の藤の大木のほとりから「朝の流れ」「紫の清水」と呼ばれる水が湧き出して、渓流に流れ込んでいた。そんなところから町の北側を紫野と呼んでいた。
闇の森八幡社(中区正木町)は大永元年(1521)、足利義晴のころに造営された。このあたりも、昼なお暗い森であった。中にある「榊の森」は、熱田神宮へ奉納する榊を植えた森、「中の森」も、古歌に歌われるほど森が深かった。
風と藤と鶯と、百鬼夜行の闇の森も、今は市街地となって、すべてが幻となってしまった。しかし、秋風しみる夜の道を、目に伴って、そんなころのよき時代の風景を想像しながら歩いてみるのは楽しい。
景行記に「大和は国まほろば」と読まれたが、城下町が広がる前の那古野台地も、濃尾平野のまほろばであった。伊吹おろしつのる秋から冬はその幻がよみがえる季節である。
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