北風が鳴っていた。枝先に残った一枚の葉が寒さに震えているようであった。 小鳥の声が、渓谷のせせらぎの音に交じって聞こえてくる。それは、戦国最強の騎馬軍団を生んだ武田信玄を狙撃する元を作ったあやかしの音かもしれない。 そこは東西を小さな渓谷にはさまれた豊川右岸台地の野田城址であった。天正元年(1573)、京を目指して西上する信玄は、山家三方衆の菅沼定盈のこもる野田城を囲んだ。小さいながらも要害のこの城を攻めあぐんだ信玄は、甲州の金山人夫を使って本丸と二の丸の間を掘り崩し、さらに穴を拡げて城内の井戸水を枯らしてしまった。 夜ごとに、妙なる笛の音が城内から聞こえるようになったのはその頃からであった。あまりに美しいその音色に攻める武田の兵も聞き惚れたが、ことに心をとらえられたのは信玄だった。初めは用心していたが、その音を聞こうと,ある夜、本陣を出て堀端に近づいた。その姿をすばやくとらえて狙撃し、信玄の死因を作ったのが城兵の鳥居三左衛門(強右衛門)だった。信玄が笛好きであることを知った城側では、笛の音でおびき出す奇策を立て、みごとにそれが成功したのである。 野田城址のすぐ東にそびえる作手の山への道は、人家がまったくないやまの傾斜を九十九折、その先の天の高みに突然、森にふちどられて開ける平野が作手である。 峰の要所、要所に二十を越える物見狼煙台をもっていた。狼煙とは狼の糞を焼いた煙のことで、どんな強い風にも乱れることなくまっすぐにたちのぼると信じられていた。 強右衛門葉この地に生まれ、村一番の力持ちだったことから長篠城主奥平貞昌の足軽となった。 長篠城が武田軍に囲まれた折、岡崎の家康に「援軍が来る」と知らせ、激怒した勝頼により、磔刑となった。 「長篠城址史跡保存館」への案内板にも描かれている。 甘泉寺の境内には鳥居強右衛門の墓がある。
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