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アート

東海歴史散策

歴史的な場所がだんだん開発の波にのまれうしなわれていく今日。
草むらに、ビルの谷間に、忘れられたようにひっそりと存在感をなくしている。
東海地方は史跡の宝庫。記憶に残っているものを少しでも多く紹介することが
大切という思いからメールマガジンで紹介し続けている。
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過去の記事一覧

1.哀話の坂道、からたちの砦の坂道

2.陶器と美濃源氏と化石植物の里

3.海賊大将軍のふるさと

4.戦国軍師が眠る美濃一の宮

5.大神に仕えるイツキノミヤ

6.神代の生活を守る幻の大和民族「山窩」

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風雅と哀史と土の国郡上

 
岐阜県郡上市


 「土と農民の国」郡上の秋は、苔むす石垣に草紅葉散る9月の末ごろからにわかに深まる。

 郡上踊りがすべてを忘れる真夏の夢華やかなら、虫のしげくなるこのころは、人の心に歴史の哀しみがにじみ出すときである。

 雁来月とも呼ばれる仲秋の九月、郡上の歴史で忘れることのできない二つの哀話がある。

八幡城の大修築が行なわれた永禄8年(1565)、石垣が何度積んでも崩れるために人柱を立てることになった。そこで、御殿女中を募集するという名目で選ばれたのが、神路村(大和村)の農民喜兵衛の娘およしだった。

 真相を知ったおよしは、老いた両親を案じて許しを乞うたが認められず、月冴えるこの月末の丑三つ時、吉田川で水ごりをとって城の地下深くに埋められた。そのとき、およしはまだ17歳であった。

 その後この季節になると城や城下に、およしの亡霊が、「寒いから火を焚いてあたらせておくれ」と現れるようになった。
郡上に火事が多くなったのはその頃からである。

 もう一つの哀史は、幕末、勤王、佐幕の二つに割れた藩の犠牲になって会津に出陣、白虎隊と共に戦って逆賊の汚名を浴びた少年隊凉霜隊の末路である。

 慶応4年(1568)4月、江戸城が無血開城され、将軍慶喜が水戸へ去ったとき、それを不満とした多くの幕府の藩士が脱走した。

 そのとき、郡上藩の江戸家老の子、朝比奈茂吉を隊長とした少年45人も同調、凉霜隊と名乗って、佐幕派の最期の砦、会津藩の救援に向うが、白虎隊を救えず犠牲者を出した。

 明治新体制のもと、凉霜隊に対する世間の目は冷たく、この地を去っていく者が多かった。

 郡上踊りの唄も、よく聞くと深い哀調をおびたものである。
江戸初期から中期、藩から幕府までゆるがせて何度も起きた郡上一揆ゆかりのもので、唄の一節「郡上の八幡、出て行くときは、雨も降らぬに袖しぼる」とは江戸へ直訴に向うときの心情である。



 

30.富士と伝説の月見草咲くマグロの里

32.あやかしの仙境だった

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